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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第66話 江口の君(遊女 妙)
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第66話 江口の君(遊女 妙)えぐちのきみ(ゆうじょ たえ) (生年不詳~1205年?)

伝説になった遊女・江口の君

新古今和歌集(978〜979)

 天王寺に詣で侍りけるに、俄に雨のふりければ、

 江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければ、

 よみ侍ける           西行法師

世中をいとふまでこそかたからめかりの宿りを

おしむ君かな

 返し               遊女妙

世をいとふ人としきけばかりの宿に心とむなと

思ふばかりぞ

(『新日本古典文学大系「新古今和歌集」』岩波書店)

この贈答歌から一つの遊女伝説が生まれた。鎌倉時代の建仁元年(1201)、後鳥羽上皇の指示で、藤原定家らによる勅撰和歌集の編纂が始まった。元久2 年(1205))3月から承元4 年(1210)9月にかけて全20巻約 1980首の新古今和歌集が出来上がり、この中に収録された。西行(1118〜1190)と遊女妙の出会いは、謡曲や長唄に形を変えながら後世まで語り継がれ、妙は「江口の君」と呼ばれるようになる。

江口は淀川下流の宿駅で平安時代からの遊里。都から鳥羽作道(つくりみち)を南下し、宇治川、桂川、木津川が合流する淀津で乗船、淀川を下ってほぼ1日の行程だ。和歌の詞書(ことばがき)は、西行が天王寺へ参詣のため、江口の里(現大阪市東淀川区)までやってきたところ、にわか雨に遭った。困って一夜の宿を頼み込んだ。しかし、主人の遊女は貸そうとしない。

西行は「この世を厭い、出家するのは難しいかも知れないが、貴方はかりそめの宿を貸すことまでも惜しむのか」と遊女をなじる歌を送った。これに遊女は「ご出家の身だと伺ったので、こんな仮の世の宿などに心をお留めにならないように、と思っただけです」と当意即妙に返し、遊女屋に宿を求める西行を皮肉交じりにやんわりからかった。ここに僧侶と遊女という好対照の人物による舞台効果満点のシーンが現出した。

この贈答歌は、西行存命中に編まれた『山家集』に採録された。しかし、「妙」の名前はなく、単に「遊女」となっている。江口の遊女は後鳥羽上皇が水無瀬宮で催した遊興に頻繁に招かれていた。「妙」の名前は西行の没後13年、藤原定家の日記『明月記』建仁3年(1203)5月13日条に出てくる。水無瀬宮の和歌を作る座でのこと。「遊女着座、神崎の遊女妙すべりて顚倒す」とある。新古今和歌集に「妙」を入れたのは定家とも上皇とも言われ、『大阪府史第3巻中世編1』(1979年)は、『明月記』の女性こそ世に名高い「江口の君」その人で、彼女の和歌は『新古今和歌集』に作者「遊女妙」として収録されたとしている。

『山家集』『新古今和歌集』では、この場面は西行と遊女との諧謔的な歌のやり取りだけだった。ところが、西行の文学像形成に大きく寄与した『撰集抄』になると、この前後の描写が具体的になってくる。『撰集抄』は、西行の著作という体裁をとった仏教説話集で、鎌倉中期に出来上がった。ここでは遊女は出家して尼になり、仏教の影響が色濃くなる。さらに室町時代、西行と妙の逸話は、能役者で能作者の世阿弥(1363?〜1443?)によって脚光を浴びるようになる。世阿弥は『撰集抄』の別の個所に出てくる「普賢菩薩は遊女の化身」という説話と組み合わせ、遊女の美しさと叙情性を映し出した物語性豊かな謡曲「江口」に仕上げた。


遊女の里は「天下第一の楽地」

平安時代、江口、神崎( 尼崎市)、蟹島( 加島、大阪市淀川区)を訪れた学者・大江匡房(まさふさ)(1041〜1111)はその繁盛ぶりを「天下第一の楽地」と紹介し、『遊女記』に「門を比ならべ戸を連ね、人家絶ゆるなし、倡女(うため)群をなし、扁舟(へんしゅう)に棹さし、旅舶に着き、以て枕席を薦(すす)む」と書いている。

遊女は当時、「あそび」「うかれめ」などと呼ばれ、「遊女の好むもの、雑芸・鼓・小端舟・簦(おおがさ)かざし・艫取女(ともとりめ)・男の愛祈る百大夫(ひゃくだゆう)」(『梁塵秘抄』)と謡われた。垂髪に作眉(つくりまゆ)を施し、小袿(こうちぎ)を着て緋の袴をつけた遊女は、旅舶が泊まりに着くと、小端舟に乗って漕ぎ寄せ、川波の音に響かせて鼓を打ち、今様、朗 詠を謡い、船客から衣服、絹、米などの纏頭物(てんとうもつ)(祝儀)をもらった。川岸には多くの遊女宿が並び、鼓や琴、琵琶、笛などが奏でられ、酒食が供され、毎夜宴が繰り広げられた。

近年の研究によると、中世の遊女は芸能や宿泊業が中心で、近世後期以降のように必ずしも売春を伴っていない。しかもそれぞれが独立的な自営業で居住や就業の自由があった。鎌倉時代初期の説話集『古事談』には、左大臣藤原道長(966~1027)が遊女「小観童」を寵愛し、訪ねてくると、赤面して祝儀を与えて帰らせたという逸話が載っている。『栄華物語』にその子、関白藤原頼通(992〜1074)が江口で遊んだ様子が描かれている。さらに後鳥羽上皇(1180~1239)は再三、水無瀬離宮(大阪府島本町)に江口や神崎の遊女を呼び寄せ宴を開いている。

また、遊女が天皇や院、公家らに寵愛されて子を産んでいる。その子が昇進を果たし、近世以降のような遊女への差別性はほとんどない。今様を愛した後白河上皇(1127~1192)は江口の遊女だった一﨟丹波局(いちろうたんばのつぼね)との間に皇子をもうけた。遊女が母親だった公家は、一条信能(1190~1221)や徳大寺実基(1201~1273)、武士では源為朝(1139~1170)らが分かっている。


フィールドノート

江口は平安京の玄関口

大阪市東淀川区に「江口の君」が開いたというお寺がある。「宝林山普賢院寂光寺」。由緒によると、妙は平資盛の息女で平家没落の後、乳母の郷里に移り遊女となった。西行と出会った後、「仏門に帰依して名を光相比丘尼と改め、此の地に庵を結びぬ。……元久二年三月十四日、西嶺に傾く月とともに、身は普賢菩薩の貌を現わし、六牙の白像に乗りて去り給いぬ」とある。しかし、登場人物の年代が合わず、真偽は不明だ。境内にある西行と妙の歌碑は江戸時代の好事家が淀川の堤防上に建てたもので、明治の淀川の改修工事で境内に移築された。


寂光寺南東の土手を上がると、淀川だ。淀川はここで緩く左に曲がっている。川幅は一段と広がり、左岸の堤防から右岸の堤防まで約630mに達する。西は六甲山系、北は北摂の山々、東は生駒まで360度見渡せる。すぐ上流が神崎川への分流地点、一津屋樋門。淀川から水が滔々と流れ込む。

神崎川は明治11年(1878)の工事で流路が変わっているが、延暦4年(785)、平城京から長岡京への遷都にともなう水路開削の大土木工事で生まれた。奈良時代、都への海運の中心は難波津だった。しかし、川砂の堆積が進み、瀬戸内を航行して来た船にとって航路標識「澪標(みおつくし)」が頼りで、しかも水路が常に変わった。このため、桓武天皇(737~806)は淀川を江口で分流し、江口と北の別府(べふ)間を結んで北摂から流れてくる三国川(安威川)につないだ。

神崎川の開削によって西国からの都への貢納物は、難波津を通らず、神崎川の河尻を経て江口から淀川本流を遡行できるようになった。江口は平安京の玄関口となり、瀬戸内や南海道から入る人や物産、四天王寺や住吉大社、広田神社(西宮市)、高野山、熊野三山への参詣に向かう天皇や公家で賑わうようになった。また、江口とともに下流の神崎は出船入り船であふれ、遊女たちが今様など諸芸を披露し、宴遊に興じる人々で賑わっていた。

現在の神崎川と猪名川の合流点、山陽新幹線のすぐ脇の梅ヶ枝公園内に「遊女塚」が立っている。鎌倉時代初期の建永2年(1207)春、讃岐国へ配流途中の浄土宗の開祖・法然(1133〜1212)が神崎に立ち寄った。遊女5人が小舟に乗って近づき、罪業深き身を懺悔したという。法然が南無阿弥陀仏を怠らず唱えれば、西方浄土に行けること間違いなしと言って念仏を唱えたところ、5人の遊女は涙を流して身を翻して入水してしまったと伝わる。

遊女塚の墓碑は戦前、神崎川の川岸に近い場所にあったが、何度か移転して梅ヶ枝公園になった。表面には「南無阿弥陀佛」の名号、側面には「弥陀仏と遊女墳も極楽の発心報士(土)の内の春けき」の歌が陰刻されている。裏面には遊女5人の名(吾妻・宮城・刈藻・小倉・大仁)があったというが、読み取れなくなっている。対岸の加島には法然が泊まったという富光寺がある。


野崎観音の再興の功労者

JR野崎駅から飯盛山へのハイキングコースの入り口、生駒山地の中腹に「江口の君」ゆかりのお寺がある。「野崎観音」で知られる福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)だ。本堂の隣のこぢんまりしたお堂が「江口の君堂」だ。正面の御簾の奧に美しく彩色された官女風の君像が安置されている。命日と言われる4月14日に毎年、大祭が催され、ご開帳ご祈祷があり、子授け、縁結び、病気平癒祈願で賑わう。

慈眼寺は天平勝宝(749〜757) 年間、行基(668〜749)が十一面観音を刻んで安置したのが始まりといわれる。平安時代、江口から淀川を下り、高瀬(守口市)で大和川を遡行し、恩智川に入れば、野崎観音の門前に着いた。江口の君が長(リーダー)の病を観音様に治してもらったお礼に「野崎観音」を再興したと伝わる。

野崎観音は、近松門左衛門(1653〜1725)の『女殺油地獄』、近松半二(1725〜1783)のお染久松で知られる『新版歌祭文』の「野崎村の段」、落語の『のざきまいり』、昭和10年(1935)にヒットした東海林太郎(1898〜1972)の『野崎小唄』など、人形浄瑠璃、歌舞伎、落語の舞台になった。お染久松の供養塚があり、会館のなかには「野崎村の段」の絵物語が掲示されている。

野崎観音と野崎参道商店街振興組合は、7、8年前から江口の君をもっと知ってもらおうと、「野崎観音と江口の君」パネル展や能衣装体験イベントを開いてきた。平成28年(2016)3月に大東市制60周年に合わせて初めて境内で「さくら能」を催した。能の演目「江口」にちなみ、境内で略式の上演形式の一つ「仕舞」と「半能」を上演した。山田修司理事長は「野崎参りとともに江口の君の発信を行いたい」と話し、同30年(2018)3月にも2回目の「さくら能」を開いた。


能楽にいまも生きる「江口の君」

大阪市中央区の大槻能楽堂は平成29年度(2017)の自主事業「能の魅力を探るシリーズ」として「能と和歌」をテーマに12公演を行った。2017年12月は『江口』。「新古今集に見える西行と遊女との歌間合」と題して京都造形芸術大学の天野文雄教授が解説、人間国宝の友枝昭世さんが江口の君の亡霊を演じた。

「江口」は、諸国を回る僧(シテ)が天王寺への参詣の途中、江口の遊女の旧跡を訪ね、懐旧の念に駆られて西行の歌を口ずさむ。すると里女(前ジテ)があらわれ、江口の君が西行を諫めたことを語り、実は自分は江口の君の亡霊だと言って姿を消す。やがて江口の君(後ジテ)が二人の遊女(ツレ)を伴って舟で姿を見せ、舟遊びを見せ、仮の世の現世への執着を戒めて舞い、本来の普賢菩薩の姿になって西の空へ消えていく。天野教授は「世阿弥会心の観念劇」と評した。

当日は一般の観客と一緒に放送大学受講生50人も観賞した。初めて能の公演を見た学生も多かったが、幽玄の世界に感激したという。現在、能楽に携わる役者は約1100人、歌舞伎の約300人、文楽の約90人と比べて能楽が飛び抜けて多い。公演も全国で月間100件に達している。『江口』は250本ほどある能楽の演目の一つだが、伝説の「江口の君」は800年の歳月を超えて形を変えていまも生きている。

2018年4月

宇澤俊記



≪参考文献≫
 ・新修大阪市史編纂委員会『新修大阪市史』第2巻(大阪市)
 ・大阪府史編集専門委員会『大阪府史』第3巻中世編1(大阪府)
 ・尼崎市『尼崎市史』第1巻本編(原始・古代・中世)
 ・滝川政次郎『江口・神崎』(至文堂)
 ・篠崎昌美『淀川の遊里』(大阪春秋第6号「特集・淀川」)
 ・脇田晴子『女性芸能の源流』(角川文庫)
 ・天野文雄『能楽名作選』(KADOKAWA)
 ・辻浩和『中世の〈遊女〉』(京都大学学術出版会)
 ・週刊朝日百科『日本の歴史 中世 遊女・傀儡・白拍子』(朝日新聞社)



≪取材協力≫
永池健二元奈良教育大学教授(中世歌謡)
公益財団法人大槻能楽堂



≪施設情報≫
○ 江口君堂普賢院寂光寺
   大阪市東淀川区南江口3丁目13–23
   アクセス:大阪メトロ今里筋線「瑞光4丁目駅」より徒歩約15分

○ 遊女塚
   尼崎市神崎町34・梅ヶ枝公園内
   アクセス:阪神バス「遊女塚」下車

○ 野崎観音(福聚山慈眼寺)
   大東市野崎2丁目7–1
   JR学研都市線「野崎駅」下車徒歩約10分

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