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ホーム | なにわ大坂をつくった100人 | 第20話 大塩平八郎
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こんなに知らなかった!なにわ大坂をつくった100人

第20話 大塩平八郎おおしおへいはちろう(1793-1837年)

武装蜂起した元奉行所与力

寛政5年(1793)、大坂天満橋で生まれる。大坂東町奉行所与力として勤めながら独学で陽明学を修め、文政7年(1824)に私塾「洗心洞」を開設。同僚の与力や同心、近郷の役人たちを門弟とした。職場では不正に立ち向かう姿が尊敬を集め、与力として最高役職の「諸御用役調」にまで出世している。

文政13年(1830)、養子の格之助に跡目を譲り、奉行所を辞して洗心洞での教育に専念する。その4年後に起こった「天保の大飢饉」で、飢餓救済策を大坂東町奉行に進言するが却下されてしまう。町に餓死者があふれ、商人の強欲さや役人の不正に耐えかねた大塩は、天保7年(1836)9月、門人や格之助に武装蜂起の計画を打ち明け、挙兵を決意した。

蜂起の前に大塩は、心血を注いだ檄文を書き上げている。また、その版木を極秘に彫らせ、刷り上った檄文を摂津、河内、和泉、播磨などの村役人に送って同調を促した。さらに決行前日には、建議書を江戸の幕府老中に送りつけた。

天保8年(1837)2月18日、密告で計画が漏れたため、準備が整わないまま夕刻の予定を大幅に早めて午前8時に決起。「救民」と染め抜かれた旗を掲げて進む一団には途中から農民や町民が加わり、300人ほどにまで膨れ上がった。次々に豪商の屋敷に火を放ち、奪った米や金銀を貧民に分け与える。しかし幕府の鉄砲隊と対峙して死傷者が出ると、味方は散り散りに遁走。蜂起はわずか8時間で制圧されたが、この事件で多くの町屋も消失した。

群衆にまぎれて逃走した大塩親子は民家に潜伏するが、40日後に所在を突き止められ、自決。処罰された乱の参加者は家族にいたるまで750人にもおよび、首謀者20人は磔の刑に処せられるなど厳しい沙汰が下された。幕府は大坂でのこの反乱を“不届き者の放火騒ぎ”として隠滅を図るが、役人だった大塩が直轄地で蜂起したという事実は、幕政に不満を持つ人々に反抗心を芽生えさせた。一揆や騒動が頻発するようになり、やがてそのうねりは倒幕へとつながっていったのである。


ストイックな日常

毎春、桜の通り抜けで賑わう大阪造幣局。大塩の「洗心洞」はその敷地のなかにあった。勤務先の東町奉行所までは天満橋を渡ってすぐ。このあたりは役人の屋敷が並んでいた地域で、いまも与力町や同心町という町名が残る。

当時の大坂は幕府直轄地で、幕府から派遣された城代と東西奉行、地元の与力と同心が司法と行政を担当していた。「洗心洞」の門弟は、与力や同心とその子弟、医者、富農の子息らで、40~50人ほどが厳しい規律のもとで陽明学を学んでいた。

塾頭の大塩の日常は、午前2時に起床し、天体観測、陽明学研究、読書、執筆、剣の素振り千回を行ったのち、5時に塾生を集めて講義を行うストイックなものだった。40歳で陽明思想を説いた『洗心洞剳記(せんしんどうさっき)』や『儒門空虚聚語(じゅもんくうきょしゅうご)』などを著し、歴史家の頼山陽に“小陽明”と称えられている。江戸の陽明学者・佐藤一斎とも交流するなど、大塩の陽明学は「中斎学派」と呼ばれる一派を形成するまでになった。その中心思想は「知行合一」。“行動が一致して初めて知が生きる”というもので、「正義と私利、誠と嘘いつわり、その境目をごまかしてはならない。口先だけで善を説くことなく、実践しなければならない」と説いている。しかし、大塩が教育に専念した7年間に奉行所の腐敗は進み、貧富の差は拡大し、正義感にあふれる大塩の憤りは募るばかりであった。


そして檄文は残った

大塩の基本思想は、蜂起にあたって書かれた檄文に集約されている。以下はその要旨である。

「天下の民が困窮すればその国は滅びるであろう。徳川家康公も「よるべもない弱者にこそ憐みをなす政治を行うことが仁政の基なり」と申されている。ここ245年の太平の間、上層の者は贅沢三昧で驕りを極め、役人は公然と賄賂を授受している。私腹を肥やし、民百姓に過分の用金を申しつけている。我々はもう堪忍できない。天下のため血族の禍の禁を犯し、有志と申し合わせ、民衆を苦しめている諸役人を攻め討ち、驕りたかぶる金持ちを成敗することにした。生活に困っている者は金銀や米を分け与えるから大坂で騒動が起こったと聞いたなら一刻も早く大坂に駆けつけてほしい。これは一揆蜂起の企てとは違う。我々は天下国家を狙い盗もうとする欲念より起こした事ではない。ここに天命を奉じ天誅を致すものである。」

役人や豪商たちを激しく糾弾する文面から、大塩が幕藩政治の改革を強く望んでいたことがわかる。「大塩の乱」の後、厳しい回収令にもかかわらず檄文は民衆によって筆写を重ね、全国に流布した。幕府は貧民救済を掲げた憂国の士・大塩の魂との戦いを強いられることとなり、30年後の慶応3年(1867)、270年間続いたその体制を閉じたのである。

この檄文の版木は乱の時に焼失し今は残っていないが、大塩事件研究会の松浦木遊さんは「四海困窮いたし候・・・」で始まる2000字に及ぶ大塩の救民への熱い想いに感動し、大塩の乱から170年目に当たる平成18年(2006)に檄文の版木の復刻に挑んだ。檄文は蜂起が事前に悟られないように32枚に分割して何人かの彫師に彫らせたという。松浦さんも32分割して筆順通りに彫り進めて半年をかけて完成させた。復刻された版木は松浦さんが自宅の一角に開設した私設「無量図書館」に展示されている。


大塩の情報戦略と幕府の危機管理

大塩の乱は僅か8時間で制圧され蜂起は失敗に終わったが、大塩の情報戦略は見事に成功した。窮民を救うためと訴えた「檄文」や、蔵書を売って得た6百両を困窮者に与えると書いた「施行札」を配布し、自らの人徳と蜂起の正当性を強く印象づけた。

一方、幕府は元下級武士の反乱に慌てふためき、19日の夜には人相書を全国へ配布。事件の情報は翌20日には江戸から四国、九州まで瞬く間に伝播した。幕府は各藩に「大塩狩指令」を発令。そして「不届きものの放火騒ぎ」と封印を謀るなど危機管理の不手際が目立った。そうしたなか、大塩平八郎が発した「檄文」は幕府の回収の目をかい潜り、筆写を重ね全国に広まった。幕府は湯屋、髪結所など人の集まる場所には大塩の噂話をしないようにと張札を張るなど大塩の乱の影響の軽減に努めたが、人々の関心は高く町中のいたる所に「世直し大明神」などと風刺の張札が貼られた。九州地方では『其暁汐満干』『大湊汐満干』という題目で悪政に苦しむ領民を救い悪人を征伐する芝居が大人気になるが、幕府はすかさず上演禁止を命じた。

もうひとつ、大塩は情報戦略を実行していた。蜂起前日の2月17日に江戸へ送った建議書である。「国家之儀ニ付申上候」と表書きされた密書は、幕府老中に宛て飛脚便で送達された。内容は国政の改革を求めるものであったが、幕閣たちが大坂町奉行時代に行った不正蓄財の告発も含まれていた。しかし、この建議書は途中で盗難にあい、伊豆の山中に捨てられ幕府に届くことはなかった。

闇に消えたこの建議書が、近年、160年の時を経て出現した。雨に濡れて傷んでいた書簡は拾われ、伊豆国韮山(現在の静岡県伊豆の国市内)の代官・江川英龍のもとに届けられていたのだ。ことの重大さに気づいた江川は、密かに書き写させていた。その写しが江川家文庫から発見されたのである。

建議書の出現により、「大塩平八郎の乱」は大坂での一事件にとどまらず、幕府中枢部を巻き込む大事件であったことが判明した。大塩研究の第一人者である元大阪市立博物館館長の相蘇一弘さんは、著書『大塩平八郎書簡の研究』の中で、「建議書は蜂起について一言も触れていないが、檄文と表裏一体をなし、蜂起を成功に導くための重要な手段であったことが理解される」「(18日に決行した蜂起の知らせは)23日ごろには江戸に伝わり、この下級武士の反乱に幕府内が騒然としている最中に建議書が届き、秘密裏に内容が検討され、蜂起の趣旨が理解してもらえるはずだと大塩は思ったのだろう」と解説している。さらに、「大塩は世間を味方につけ、檄文と建議書で決起の趣旨を示し、幕府が事態の収拾を図るのを立てこもりながら待つ作戦を取ろうとしていたのではないだろうか。国家の行く末を真剣に憂い、一命をかけて蜂起する自分の真意は必ず理解されると信じていた」とも。

そして、「ただし計画が成就するためには、(最初の計画通り)まず大坂の両町奉行を殺め、豪商の金銀米を奪って貧民に施し、その後に立てこもることが必要条件だった。さらに建議書が無事に江戸に着くことも必須条件だった。だが現実には蜂起は失敗し、密書も幕閣に届かなかった。大塩の行動は、動機はともかく、形の上では幕府に楯突き世間を騒がせた謀反でしかあり得なかったのである」と締めくくっている。


大塩事件研究会

大塩平八郎の墓は、代々の菩提寺であった大阪天満の成正寺(大阪市北区)にある。江戸時代は大罪人として墓を造ることが許されなかったが、明治維新から30年後にようやく建立された。しかし大阪大空襲で消失し、現在の墓は1957年に有志によって復元されたものである。墓の隣には決起後150年の昭和62年(1987)に据えられた「大塩の乱に殉じた人びとの碑」もあり、毎年、命日の3月29日に慰霊法要が営まれる。

成正寺には「大塩事件研究会」の事務局も置かれている。郷土史愛好家や関係者の子孫たちが集まって昭和50年(1975)11月に設立されたもので、大塩事件を多方面から調査・研究し、その全貌を明らかにすることを目的としている。会員は約150人で、毎月古文書を読む会を開催し、機関誌『大塩研究』を年に2回発行。蜂起から160年にあたる昭和51年(1976)には、終焉の地に近い靭油掛町(現在の大阪市西区靭本町)に、篤志家の寄付を仰いで記念碑を建立した。その碑文の最後には「大塩の行動は新しい時代の訪れを告げるものであり、その名は今もなお大阪市民に語り継がれている」と記されている。


2016年5月

(橋山英二)

≪参考文献≫
 ・出潮引汐奸賊聞集記
   大塩平八郎著作
    『洗心洞箚記』
    『儒門空虚聚語』
    『増補孝経彙注』
    『古本大学刮目』
   明治以降の著作
    『洗心洞詩文』船井政太郎刊(1879年)
    戴聖・王守仁著, 大塩編『古本大学旁註』鉄華書院 (1896年)
    『通俗洗心洞箚記』内外出版協会 (1913年)
    『大塩中斎先生天保救民告文』大塩中斉先生九十年記念会 (1926年)
    山田準訳『洗心洞箚記』岩波文庫 (1940年)
    『日本の名著27 大塩中斎』中央公論社 (1978年)
    『日本教育思想大系11 大塩中斎』日本図書センター (1979年)
    『日本思想体系46 佐藤一斎・大塩中斎』岩波書店 (1980年) 
      吉田公平訳『洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート』たちばな出版 (1998年)
 研究書
    大塩事件研究会『大塩研究』第1号~第70号
    森田康夫『大塩平八郎と陽明学』 日本史研究叢刊:和泉書院
    相蘇一弘『大塩平八郎書簡の研究』巻1~3 清文堂出版
    大塩事件研究会編『大塩平八郎の総合研究』泉書院
    幸田成友『大塩平八郎』中公文庫、『著作集』中央公論社
    叢書・日本の思想家38『大塩中斎・佐久間象山』(1981)
    宮城公子『大塩平八郎』朝日選書、ぺりかん社
 小説
    森鴎外 小説『大塩平八郎』
    阿部牧郎『大坂炎上 大塩平八郎『洗心洞』異聞』徳間文庫ほか
    長尾剛『大塩平八郎構造改革に玉砕』



≪施設情報≫
○ 東町奉行所跡(大阪合同庁舎1号館前)
   大阪市中央区大手前1-5-44
   アクセス:地下鉄谷町線「天満橋」駅から徒歩4分

○ 成正寺
   大阪市北区末広町1-7
   電:06-6361-6212
   アクセス:地下鉄谷町線、堺筋線「南森町」駅6番出口より徒歩3分
       JR東西線「大阪天満宮」駅より徒歩7分

○ 大塩平八郎終焉の地記念碑
   大阪市西区 靱本町1丁目18-12
   アクセス:地下鉄四ツ橋線「本町」駅から徒歩約3分

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